「地上から虚空こくうに至るまで、佛の国のすべての物は無数の宝物や様々な種類の香によって作られ、その荘厳さは限りなく、香はあまねく十方世界にかおる。その香を聞くものは皆な佛道を修行するであろう」 (大無量寿経第32願より)

インドでは、香は古くから天井界を供養するものと考えられ、粉末を塗って身を清めたり、屋内に薫じて賓客ひんきゃくをもてなすために用いられました。
お釈迦さまを迎えるに当って、地に敷きつめたとも伝えられています。
佛前に香を薫じるのは、このような故実に由来するのです。

浄土真宗では香の用いかたに3通りあります。
@塗香ずこう 導師どうし礼盤らいばん(高座)の上で香の粉末を身体(法衣ほうえ)に塗って、身を清める。
A燃香ねんこう 香炉に抹香を埋めて火をつけ、長時間薫じ、その匂いで佛前を荘厳しょうごん(おかざり)する。線香が我が国で用いられるのは江戸時代からで、抹香に準じて灰の上に寝かせて供えます。
B焼香しょうこう 法要、儀式  に当り、差列者が佛前に進み出て香を薫じる。香炉には予め火種を入れておきます。香は頂かずに、1回だけ香炉に薫じ、合掌礼拝、お念仏をとなえます。
(平成20年11月)
子の母をおもふがごとくにて 衆生仏しゅうじょうぶつおくすれば
現前当来げんぜんとうらいとほからず 如来を拝見うたがわず
「親子の断絶」などという、おそろしい言葉が言われて久しい時を経たようです。このごろは「非行少年」のみならず、「非行母親」のみならず「非行老人」などという言葉も聞かれるありさまです。
ところで「断絶」という考え方は仏教ではありません。「縁起えんぎ」の世界に断絶なしと言うべきでしょう。「同体の慈悲」といわれ「一体感」といわれる考え方が一貫した仏教のこころです。この考え方に親しんできたものにとっては「断絶」とか「関係ないよ」といった言葉を聞く時、背すじの寒い思いがするのです。思えば親と子の間などは、それこそ「死さえもなお断絶ではない」といわねばなりません。死なれてみて、はじめてうなずける言葉ではないでしょうか。
いま、この和讃は「首楞厳経しゅうようごんぎょう」の文によって念仏三昧の徳を讃嘆されたもので、母親の慈愛が子供のこころにしみ通ると、子供がますます母親を慕うように、仏の慈悲が衆生にめぐまれると、衆生は仏を深く心に思い念ずるというように、衆生のこころと仏の心が呼応してかよいあうことを、ほめたたえられたものであります。
今年の8月は暑く、彼岸も終り寒くなりましたが、お盆のころになると思い出される「盂蘭盆経」のこころは意味深いものがあります。目蓮という釈尊の大弟子が、先だった母のことが忘れられず、神通力で世界をくまなく見渡したところ、母が餓鬼道において苦しんでいるのを発見した。伝説によれば、幼くして父を失った目蓮は、母の手一つで育てられた。母は他人に施しをする心がなく、ただ「自分の子供だけは」と愛し、貪欲の生活に終始したので、だから餓鬼道に落ちました。救いたい一心で、やがて目蓮が釈尊に導かれ、布施の行を修めることによって、母親も餓鬼道に苦しみから救われたというのであります。
このように母が忘れられない子、もっとも微笑ほほえんでいてほしかった母が、苦しみのどん底に沈んでいたことを知り、その苦しみの原因は子供故に、自我をむきだしにして愛したまどいにあったことにめざめ、自らの布施の行、利他の行によって自らもめざめ母親もすくわれたという、この御経のこころは重大な意味をもっていると思われます。
いま、私たちは、それを念仏のこころでうなずけるのは、この和讃であります。すなわち、子供が母親を慕うように、衆生が仏を深くおもい念仏すると、現在は言うに及ばず未来も、大智大悲の阿弥陀如来をおがみあえることができる、とのこころです。
(平成20年10月)
 9月23日(中日) 午後1時より 
彼岸とは、仏教用語で彼の岸 つまり仏の国お浄土の事です。私達が生活する迷いや苦しみの現実の世界を此岸(しがん)と言い、此岸に対して素晴らしい真実の悟りの世界である彼の岸を思って古来より彼岸会法要が勤められてきました。
この彼岸の時期には、太陽が真東から昇り真西に沈んで行きます。
阿弥陀様のお浄土は、経典に「西方十万億の仏土を過ぎた処にある」と説かれ、西に沈む夕日の方角にお浄土があると示されているのです。
自分自身を見つめ、仏様のご恩に感謝してお参り致しましょう。

 9月24日(水)〜26日(金) 午後1時より
布教師:佐々木 光明師(札幌組・浄土寺住職)
正式には『永代祠堂経しどうきょう』と言います。私達が仏さまにみ教えに出遇わせて頂く、この「本堂」が永代にわたって保たれて行きます様にとご苦労下さった先人達の願いに感謝し、又その願いを後の人々にも相続して行こうと決意を新たにすると言う意味をもつ法要です。
悲しい縁を目の前にした後、いのちの儚さ、大切さやつながりを私達が再認識し命に対する感謝と喜びを聞いていく縁が仏事です。
永代経法要は、先祖有縁の方々の追悼法要です。それは、故人を偲びながら私達が育てられる場なのです。このご縁を大切に頂き、仏法を聴聞致しましょう。
(平成20年9月)
 盆会と盂蘭盆会うらぼんえの略である。盂蘭うらんとは倒懸とうけんの意味で、さかさにつるし上げられることで、苦しみの大きなことをあらわす。
 盆とはうつわのことであり、救いを意味する。だから盂蘭盆会とは、大きな苦しみをもったものが救われる法座をいうことになる。
 この盆会は、「盂蘭盆経うらぼんぎょう」の説かれる故事からおこった仏教行事である。「盂蘭盆経」には、目連が、釈尊の教えによって、餓鬼道で苦しむ母を、安居あんご(僧の勉強会)の終わった日に僧たちに飯食をを供養することによって救った、と説かれている。このようなおこりからして、盆会は死者を供養する行事という色彩が強く、精霊が帰ってくるといって迎え火をたいたり、また送り火をたいて送る風習等も、地方によっては残っている。しかし、浄土真宗においては、第二十一代・明如上人の時から「歓喜会」とも呼び、仏恩をよろこばせて頂く聴聞の大切なご縁としているのである。また、盆おどりは、目連尊者が、その母の救われたことを踊りあがってよろこんだ姿に由来するといわれている。
 盆会は、大体において関東では七月十五日、関西では八月十五日を中心に行われる。本願寺においては、八月十四日・十五日に盂蘭盆会の法要がつとまり、各末寺においても日は多少前後するが、盆会の法座がもたれる。お盆をただ故郷に帰って、先祖の墓参りということだけで終わるのでなく、是非、法座に参詣し、聴聞を重ねて頂きたいと思います。
当寺は8月16日午後1時30分より 初盆法要と併修します。
当寺は、8月28日より30日までの三日間、下記の日程により報恩講法要を行います。
報恩講は、毎年の一番大事な法要です。
それは蓮如上人は「信心を得る」ためだと言われるのです。
信心とは「聞即信」よく聴聞させて頂く事が大切です。
聞く事は、仏願の生起本末を聞いて疑信ある事なし、うたがいが晴るまで聞かせていただきましょう。
8月 28日 午後1時30分 初逮夜
29日 午後1時30分 大逮夜
午後7時 お初夜
30日 午前7時 お晨朝
午前10時 御満座
(平成20年8月)
光明遍照 十方世界
念佛衆生 攝取不捨
阿弥陀如来のお身体から発する光は、世の中の隅々までを
照らし、念仏を喜ぶ衆生を、必ずお浄土に生れさせて下さる。
「観無量寿経」
阿弥陀如来は、空中に浮かぶ蓮の台座の上に立ち、身体全体から光を放っておられる(住立空中尊)。これは、坐って瞑想に入っておられた仏さまが、衆生済度のために立ち上がられたお姿、空中の蓮台は、仏さまの不思議な力を表しています。

仏さまは、右腕の肘を曲げて右手を胸のあたりに挙げ、掌を私たちの方へ向けておられます。この手の姿は施無畏印せむいいん(私たちの心に安らぎを与えるしるし)と呼ばれています。
また左手は下方に垂れ、掌はやはり私たちにお向けになっておられます。
この手の姿を与願印よがんいんといい、私たちを救いたいという仏さまの願いを表しています。
この右手と左手のお姿を合せて、一切衆生を救わずにはおかない仏の心(誓い)を示すという意味で摂取不捨印せっしゅふしゃいんと呼ばれています。なお印とは仏さまの手の姿のことで、印相いんそう、印契などとも呼ばれさまざまな種類があります。

私たちが礼拝する阿弥陀仏(如来)像をふくめて、仏像(厳密に云えば仏教尊像)には様々の種類があります。阿弥陀如来や釈迦如来など、仏さまのお姿を如来像といいます。
仏様は出家のお姿ですから、身に袈裟けさ衣をまとっておられますが装飾品は何も着けておられません。お足も素足です。頭の中央の盛り上がっている部分を肉髻にっけいとよび、知慧がたくさんつまっていることを表しています。眉間の中央には白毫びゃくごうがあります。白毫とは白い毛という意味で、長い白い毛が蝸牛かたつむりの殻のように渦まいて眉間におさまっていて、光明を放つと言われています。
(平成20年7月)
境内も今、つつじや芝ざくらが花盛りで木木は新緑になり美しいころとなりました。
仏教の故郷インドでは、花はお盆のような器に盛って仏前に供えたり、花環の形にして賓客ひんきゃくの首にかけたりします。花瓶かびんに色花を立てて仏前に供えるのは、中国では宋の時代、我が国では室町時代(浄土真宗では第三代覚如上人)からのようで、それ以前は我が国では仏花といえばしきみでした。
仏花の立て方は、立華の作法にのっとり「しん」「正真しょうしん」その他の役枝やくえだに新しい花を添えるのが正式です。通常は花の部分が花瓶の1〜1,5倍、真を含めた高さが花瓶の2〜3倍程度の高さになるように立てます。
花瓶には水を入れないのが立華の原則ですが、水を入れる場合には、できれば毎日、新しい水ととりかえましょう。水が古いと花も枯れやすく悪臭を発します。
仏壇の花瓶は小さいので、庭に咲いてる季節の花を供されてもよろしいです。
仏様に供えるのに、なぜ仏様の方を向けないのかと云えば、仏花をも含めて、本堂や仏壇は、お浄土、仏の国を表すものですから、出来るだけ美しく見える様にこちら向きにお供えします。
(平成20年6月)
 
宗祖、親鸞聖人は、公家の生まれでしたが、早くご両親と死別されたことが機縁となり、出家得度され、法然上人との出会によって、藤原家の家人であっただけではなく、現に今、世界の親鸞となって有縁の人びとから、お徳を鑽仰されておるのであります。言いかえれば、いつの時代にも、だれとでも、いつも共に生き続けておってくださる宗祖であるところに「生きた祖師のお姿」があるのです。
ことに、宗祖は、阿弥陀如来のご本願によって、凡夫がお慈悲のお救いひとつで、必ず浄土に往生し、仏になることをお聞かせにあずかった私共に、ご報謝のお念仏を申す、他力回向のみ教えをお示し下さいました。
本願寺第三代、覚如上人が、永仁2年(1294)11月、宗祖の33回忌法要執行の際に「報恩講式」を作り、宗祖のご真影前にて読まれたと伝えられている「式分」の第一段には「真実興行の徳」をのべられて、宗祖の高徳を讃嘆せられています。
式文の中で「興行」と示されたことが、特に心を引かれるのであります。オコシ、オコナフコト、オシヒロムルコトと辞書にあり、宗祖がご誕生くださってこそ、はじめて平生業成、在家止住のみ教えにあわせて頂くことができたわけであります。
イギリスの数学者ニュートンが、リンゴの落ちるのを見て万有引力という無形の対象を洞察したと伝えられるが、引力を発見したから物が落ちだしたのではなく、リンゴの落ちる以前からすでに引力は働き、物体は落ちると言う現象を万人が認めていたのでありますが、そこに引力の法則として万人に明らかにしたのがニュートンであったわけです。
仏教のみ教えも、釈尊がお悟りになってから縁起の法がはたらきだしたのではなく、お悟りになる以前から縁起の法として真実ははたらいていたのですが、この法こそが、わが身も人も、お救いにあずかる真実のみ教えであると、浄土真宗を興行してくださったのであります。
宗祖のご誕生により、生きるよりどころ、死して帰らせて頂く「生死いずべく道」が明らかにされたところに深い意義があります。
(平成20年5月)
伝記によりますと、釈尊は、お生まれになるなり七歩あるき、天地を指さして「天上天下唯我独尊、三界皆苦我当安之」といわれたということです。お生まれになったばかりの方が歩き、言葉をいうなどということは、およそ考えられません。では、経典はウソを書き残したのでしょうか、私はそうは思いません。確かに生れたばかりの釈尊が七歩あるくこともなかったでしょうし、「天上天下・・・」等の言葉もいわれなかったでしょうが、経典は七歩あるいた、「天上天下・・・」と宣言なさった、ということで釈尊という方がどういう方であったかを、後世の私達に伝えたかったのだと思います。

では、七歩あるいたということで、経典は私達に何を伝えたかったのでしょうか。先輩の人たちは、七歩あるいたということで、釈尊は迷いの六つの世界(六道)を超えて生きようとなさった方であり、六道を超えて生きることによって、本当の幸せがあることを教えてくださったのである、と喜んでおられます。
すなわち、六道を超えた世界と、又、六道を超えた世界においてこそ、真実の利のあることを教えてくださる為に、釈尊がお生まれくださったのだと喜ばせて頂いています。

六道とは、
・他人を責めつづける鬼と自己をかえりみることのないものの住む地獄、
・欲望(貪欲とんよく)に自己を見失ったものの住む餓鬼、
・自己と自己の行為を恥じること(慙愧ざんき)のないものの住む畜生、
・怒り(瞋恚)と慢心によって自己を見失ったものの住む修羅、
・三つの姿(不浄相・苦相・無常相)をもちそれに悩み苦しみながらも、真実を求めずにおれないものの住む人間界、
・楽しみのあとの虚しさ、寂しさを感じれば感じるほど楽しみを追いつづけて、自己を見失っているものの住む天上界
です。この様な六道を超えた世界を教え、真実の利を私達にあたえるために、釈尊はこの世にお生まれくださったのです。

また、「天上天下唯我独尊、三界皆苦我当安之」とは「この世でもっとも尊い者は、苦しみ悩む人々に真のやすらぎをあたえることのできる者だ。私はそういう者になるために生まれてきたのだ」と云う、釈尊の力強い誕生宣言であります。
(平成20年4月)
 
希望の春の足音も聞こえる候となり、門信徒の皆様には、合掌のうちに念仏相続の事とお喜び申し上げます。
さて、3月20日は春季彼岸会、21日より三日間、春の永代経法要を勤修致します。
この法要は、先祖有縁の方々の追悼法要です。
「人に生まるるは有難し、いま生命あるは有難し、ほとけの法を聞くは有難し」と法句経に説かれている様に、人間界に生まれさせて頂き、尊い仏縁を下さった先祖の方々を偲び、仏様のみ教えを聴聞しましょう。
お金が無いから不安である。親しい人がいないから不安である。頼れる知識・信念が無いから不安だ。・・・この様に何かが足りないから不安の様に感じますが、本当は自分自身が持っている肉体、又心の中にある無明・煩悩こそが不安の根源です。それに目ざめ厳しく見つめていく事が親鸞聖人のみ教えです。
どうか、一人でも多くの方々が法要に参拝し、仏縁を深めましょう。
彼岸会法要の勤行終了後、小・中学校に入学されるお子様に、記念品として子供用門徒式章を差し上げます。
春4月、入学式に出席される親と子の姿は、毎年の事ながら、温情あふれるものを感ぜずにはおれません。成長した姿を仏様やご先祖に御報告し、入学を機会に家族揃ってお寺にも家の仏壇にもお参りされる様に、お奨め致します。
(平成20年3月)
浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご命日は、弘長2年1月16日です。本山西本願寺では、1月9日より16日まで7日間、御正忌報恩講が勤修されます。
毎月16日は、親鸞聖人のご命日です。宗祖のみ教えのお流れをくむ者は、ご恩報謝の勤行をつとめる事が大切です。昔は、16日は仏さんの日でお精進日しょうじんびとして魚類や肉食を控え、質素な食事をし、宗祖の御遺徳を偲びました。
本願寺の第三代、覚如上人は、宗祖のお徳の高いことをたたえて「報恩講式」を書かれています。その中に「恩顔は寂滅の煙にしたまふ」とあり「真影を眼前にとどめたまふ」とあります。宗祖のいつくしみのある顔つきは、煩悩の境界を離れてお浄土にお還りになったけれど、幸いにご真影のお姿を拝することができるのであります。
徳音とくいんは無常の風にへだたる」とあり「実語を耳の底にのこす」ともあります。宗祖のご教化にあずかったおめぐみは、今は直接聞くことはできないけれども、真実をお説きくださったお言葉は、お聖教を通して、聞かせていただくことができるのです。
宗祖のご入滅後七百年をはるかに経ていますが、真実のみ教えは、現に人間の生命を恵まれた群萌ぐんもうが、いつでもどこでも聴聞のできるみ教えであり、聞かねばならないみ教えであります。宗祖は、釈尊の教法「大無量寿経」を真実の教と仰がれ、み教の根本とされました。教義の全体が「教行信証」のお示しでは、南無阿弥陀仏のお名号を信じて、疑うことなく、お慈悲にすべてをおまかせし、浄土に往生して必ず仏果を得させてもらうみ教えであります。
この上は、ご恩報謝のお念仏を申し、広く一人でも多くの人に、どのようなところにも至らぬところなく伝えるべきであります。
(平成20年2月)

前月までのひとことへ