光円寺は、隣の厚別墓地が始まりです。明治の初期、開拓の激しい労働、厳しい寒さなど様々な苦労が重なり、亡くなった方々の仮埋葬の場が墓地となり、やがてお寺も建立されるに至っています。墓地として認可されたのは、明治19年で、当時はすべて土葬でした。最期の埋葬をする前にお経をあげて欲しいという願いもあったようです。
 明治30年から2年半ほどは、大友妙智尼(真言宗)がおられ、その後、明治33年に福井県丹生郡明厳寺住職乙坂閑寿師が、此の地に来られ開教し、翌34年アシリベツ説教所を開設。(福住寺の前身、月寒出張所にも同時期におられたとの事ですが、当時僧侶が少ないので兼務と思われます)10年後に寺号公称を果たし、札幌に転居、昭和5年に92歳で往生されました。
第一世住職 武部洗心師は、富山県婦中町光善寺より札幌別院に奉職、光円寺門徒総代の方々の要請により明治43年、寺号公称後に入寺、当寺の基礎を作りお念仏流通のため、8年間心血を注がれましたが、大正7年に行年41歳にて往生されました。
大正8年より、白石町厚別安楽寺住職 横場僧湖師が代務住職として大正10年まで務められ、その後第二世住職として前住職の時から法務を手伝っておられた富山県婦負郡呉羽町大徳寺衆徒斉藤昇龍師が法灯を継承され、50年以上の長きに亘り当寺護持発展に精進されました。その間、風雪に耐え、老朽化した本堂、庫裡を門信徒のご協力もあり新築し、昭和51年、行年81歳をもって往生されました。

第三世住職 一瀬隆城師は、札幌別院に勤務。昭和51年、前住職生前に後継住職に決まり入寺。翌年、本山より住職を拝命しました。時代の流れは厳しく、周辺は都市化が進み、ベッドタウンに急変してきました。時代に即応した会館・納骨堂を望む声があがり、昭和53年に納骨堂・庫裡を、翌年に会館を建立し、葬儀及び仏事の会場として、お念仏聞法の道場として歩んできました。
平成8年より、開教百年に向けて実行委員会が発足し、平成11年に開教百年法要、本堂、納骨堂、庫裡落慶法要を勤修致しました。 |